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学力試験の本質~すべての入試がAO入試になったときの未来を想像する~

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AO入試にも学力試験を設けるという動きがあり、2020年から実施されるらしい。この意見に対して私は、現在のAO入試よりはマシという意見だが、そもそもAO入試自体に反対である。なぜなら、私はすべての入学試験を学力試験にするべきと考えているからだ。

 

AO入試について

 

そもそもAO入試とはどういうものなのだろう。それは出願者自身の人物像を学校側の求める学生像と照らし合わせて合否を決める入試方法であるとされている。実際の試験方法は学力ではなくて、内申書、活動報告書、志望理由、小論文など、出願者の個性や適性を多面的に評価する、つまり、人物評価を行うという建前になるが、個性とは、人物とはなにか答えられるのだろうか。非常にあいまいな基準である。

 

さらに日本の大学において評価の高いとされる早稲田大学のAO入試に受かったのが小保方氏であり、そこで生み出されたのがSTAP細胞である。人物を見る、個性を見るということがいかに難しいということがわかるだろう。

 

※もちろん、一般入試(学力入試)で入学した人間が研究者になってから不正・捏造のたぐいは当たり前のように起こしているが、人物を見るとされた試験を通過しておいてのことであるので、試験基準のでたらめさを表現したく、例に挙げた。

 

すべてAO入試になると何が起こるか

 

 脳科学者?の茂木氏がすべての試験はむしろAO入試にすべきということがネットで話題になった。しかし、上記したように、AO入試とは人物を見るというあいまいな基準である。

 

そしてその場かぎりの学力試験とは違い、日々の生活で何を行ってきたかが見られると考えることができる。

 

つまり、日々の生活で出したあらゆる成果に対して本人以外の力が加わる余地が発生するということであり、非常に不平等な試験なのである。

 

具体例を挙げよう。金持ちの息子がどこかの研究室に中学生や高校生のとき、週1回かそこら研究室に遊びに行ったとしよう1。もちろん、その研究室に金持ちは寄付金を収めている。そして、研究成果として論文を執筆し、筆頭著者で成果を出した風を装うことができる。もちろん、真面目に行い本当に成果を出す人もいるだろうが、そうでなくても内部にいる人間以外にはそれを見分けることができなく、外部の人間が着目するのは論文1件を筆頭著者で出したという事実のみである。

 

このように人物を見るというあいまいな基準は、一発試験である学力試験と違い、家庭環境でどうとでもできることを意味する2

 

これが何につながるのかというと、さらなる格差の固定化につながると考える。

 

では、AO入試より介在できる余地が少ない学力試験(現在)では格差は生じていないのかというと、もちろん生じている。その一例として東大生の親の収入を挙げよう。

 

東大入学者の親の所得は高く、950万以上が5割強である。ちなみに年収1千万円以上もらっている人は日本人の5%前後しか存在しない。つまり、東大生の半分は日本の5%に入るハイクラスな家庭で育っているのである。この差が生じる理由の一つには、幼少期から潤沢に教育に金をつぎ込むことができるということが含まれているだろう3

 

この世の中は不平等であり、生まれながらの不平等差自体は自分の努力ではどうにもできない。しかし、自分の才能と努力で這い上がることはできる。その内容は芸能活動であったり、スポーツであったり、勉強であったり、いろいろあるだろう。

 

しかし、すべてがAO入試になるとその這い上がるチャンスの一つを奪うことになる。

 

言い換えると、

 

学力入試はコネも権力もない人間が這い上がるチャンスの一つ

 

である。

 

これが、ハイクラスでない世帯で育った私がAO入試を全否定する理由である。

  

※1:別に研究でなくても堂々と言えるようなことであれば何でもよい。例えば、どこかの企業のマーケティングや経営会議に参加するなど、見栄えが良ければなんでもよい。

 

※2:いまでも、学歴を金で買うこと、裏口入学などが存在するが、それが大っぴらに認められるということである。

 

※3:もちろん、本人の努力を否定しているわけではないが、環境の差というものは必ず存在する。つまり、貧乏人は自分と同じ才能をもつ金持ちの人間と同じ量の努力を行ったとき、金持ちの人間に勝ることはできない。

  おまけ:格差が固定されるとどのような世の中になるか

上記までは、個人に対する影響を主に書いた。では、個々人のあつまりである国にはどのような影響があるだろうか。それは江戸時代をみればわかるように衰退しかない。青年よ、大志を抱けというフレーズを明治時代、クラーク博士がわざわざ発した理由を考えると、当時の人間は、固定化された枠組みでしか物事を考えることができなかったのだと推察される。その後の、明治時代の経済成長は、第二次世界大戦後の昭和の高度成長と同程度の成長率を誇っていたことを考えると、チャンス、または希望があるということが非常に大切であることが理解できるだろう。

 

※明治維新は、下級武士が上級武士を打倒した、つまり、支配者階級の中で完結した出来事である。つまり、商人のような金持ち以外の一般人は他の情報を入手できないので大志を抱けない状態だったのだと推察している。

 

まとめ

学力試験の本質は持たざる人間が這い上がるチャンスの一つである。一発試験である学力試験でも、家庭環境が介在できるがそれはサポートの域をでない。しかし、AO入試は家庭環境が結果にまで介在できるようになる最悪の試験である。AO試験オンリーになると格差の固定につながり、コネや権力がない一般人は這い上がるチャンスを一つ失うことになる。

さらに国として国民一人ひとりに這い上がるチャンスを与えなければ、その国は必ず活力を失い衰退する。